今天讀到這段很喜歡,細膩地描繪了清醒與夢境之間的「恍惚」,這也是一種詩的角度嗎?非常有意思。從旅人白天看待自然、鄉村事物第三者的觀點,到夜晚作夢感官敏銳起來,神秘且曖昧的狀態,是否也算作另一種視角呢?而且那是在現實與虛幻間混合的邊界,難分彼此又難以超脫。
不知到為什麼這段落特別觸動我,也許是貼切地呼應了我渾渾噩噩的日常,又或是作者如詩的彩筆,如此細膩而優美,讓人入迷。
想起了莊周夢蝶,究竟何為虛幻?何為真實?
而我總覺得這背後蘊涵了生命哲理的智慧呢。

 

恍惚(こうこつ)と云うのが、こんな場合に用(もち)いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちには何人(なんびと)も我を認め得ぬ。明覚(めいかく)の際には誰(たれ)あって外界(がいかい)を忘るるものはなかろう。ただ両域の間に縷()のごとき幻境が横(よこた)わる。醒()めたりと云うには余り朧(おぼろ)にて、眠ると評せんには少しく生気(せいき)を剰(あま)す。起臥(きが)の二界を同瓶裏(どうへいり)に盛りて、詩歌(しいか)の彩管(さいかん)をもって、ひたすらに攪()き雑()ぜたるがごとき状態を云うのである。


「恍惚」在清醒與沉睡中的朦朧。熟睡之中,誰也不能認清自我;清醒之時,誰也不會忘記外界。只是兩者之間存有幻想,細若絲縷。雖云清醒,尚餘朦朧;雖云酣眠,仍少存生氣。此種狀態彷彿將起臥二界同盛入同一瓶內,用詩歌彩筆一味攪拌而得知。


自然の色を夢の手前(てまえ)までぼかして、ありのままの宇宙を一段、霞(かすみ)の国へ押し流す。睡魔の妖腕(ようわん)をかりて、ありとある実相の角度を滑(なめら)かにすると共に、かく和(やわ)らげられたる乾坤(けんこん)に、われからと微(かす)かに鈍(にぶ)き脈を通わせる。


採擷自然之色融於夢幻之境,擷宇宙之實劃入雲霞之鄉。借睡魔之妖婉,磨光一切實相之稜角。將微微遲滯的脈搏通向和緩的乾坤。


地を這()う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂(たましい)の、わが殻(から)を離れんとして離るるに忍びざる態(てい)である。抜け出()でんとして逡巡(ためら)い、逡巡いては抜け出でんとし、果()ては魂と云う個体を、もぎどうに保(たも)ちかねて、氤(いんうん)たる瞑氛(めいふん)が散るともなしに四肢五体に纏綿(てんめん)して、依々(いい)たり恋々(れんれん)たる心持ちである。


宛如掠地之烟想飛升而不能飛升;人之魂魄欲出竅又不能出竅。欲超脫而又逡巡,逡巡後之後又想超脫,致使靈魂之物終將難留。晦明之氣氤氳不散,纏綿於四肢五體,依戀難捨,這就是我此刻的心情。

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